そのうち人間は考えるのをやめた
家のインターネット回線が切れた。
長期の海外旅行から帰ってきた矢先のことだった。
どれ、溜りに溜まったレポートでもぼちぼち消化していきまひょか、とパソコンを立ち上げたのは良いものの、何故かインターネットに繋がらない。
衝撃だった。僕は驚愕した。
インターネットに繋がらないからYoutubeで暇つぶしに面白動画が見れなくなっただの、オカズ探しのアダルトサイト巡りの旅が出来なくなっただのそういうことじゃなくて(そういう不便も確かにあったが)、『インターネットが使えないと満足にレポートすら書けない』という事実に、だ。
自分はグーグル先生に頼らないとまともに文章も書けないのか?
いや、そもそも自分が今まで書いてきたのは文章だったのか?
文章力には多少自信があって、大学のどの授業でもほぼ必ず95優を頂戴してきた自分のレポートは、単なる「読みやすいまとめサイト」だったのではないか?
自分がこれまでの大学生活で得たのは「コピー&ペースト(好都合な窃盗)」みたいな中二病くさいルビが振られてしまいそうな安っぽい能力でしかないのではないか?
てか、これってそもそも「能力」ですらなくね?
最初に検索エンジンが開発されたのは1990年らしい。(httap://www.seojapan.com/blog/より)
ネット世界は進化し続け、人々は調べたい言葉を入力して検索ボタンをカチッとクリックするだけで、無限の情報を手に入れられるようになった。
最近ではウェアラブル端末が発達して、脳とサーバーを直接繋げるようになる!という話まである。
そういう時代になったのかもしれない。
人々は知識を「記憶」する必要が無くなり、「活用」することにのみ重きを置けば良いようになったのかもしれない。
自分の脳が、知識・情報の保管庫であるサーバーと直結しているのだから、強ち間違ってもいないだろう。
「やったー!!これで夏休み社会科の暗記の宿題ともおさらばだー!!」
…という、2学期開始までに夏の宿題を終わらせることができなかった小学生の声が日本中から聞こえてきそうだが、話はそんなに単純ではない。
第一の問題点として、インターネットの検索エンジンに依存しきってしまうと、自分の頭で考えなくなる。
自分の頭で考える必要などない。答えは全て電脳世界に転がっているのだから。
特に間違いに厳しく、正解を奨励する現在の日本の教育システムを生き抜いてきた我らにとっては、インターネットは頼らざるを得ないグングニルである。
頭の全ての機能を「検索」に託した結果、人間は自分の頭で考えなくなる。
第二に、情報に対して受け身にしかなれなくなる。
「たーくさんある情報から、自分に必要なものだけ選び取っていく!」なんて意気込んでも、先述の理由で「思考」は使い物にならなくなっているのだから、そもそも無理な話である。
本の出版には大勢の人が関わり何重にもチェックするなど誤った情報の発信を防ごうとする工夫があるが、ネットは投稿ボタンを押せば即座に拡散される世界なので、虚偽の情報が満ち満ちている。発信者にその意図がない場合も多い(もはや懐かしのaicezukiが知恵袋に投稿した京大の問題に対しても、間違った解答が付けられてましたね)
逆に、意図を持った発信者によって情報操作が行われる場合も有り得る。
情報の一方的な受信者にしかなれなくなるということは、発信者の思い通りに動かされてしまう可能性があるということである。
第三に、ネット環境がなくなればその人はハイパーダメダメ使えない人間になる。
当たり前っちゃ当たり前のことなので説明は割愛。
誰でも思いつきそうなデメリットだが、「こんな罠には嵌っていない!賢くネットを使えてます!」と自信を持って言える人はどれくらいいるだろうか。
もしかしたら人類はそのうち本当に考えるのをやめてしまうのではないか。
近い将来、世界はグーグルやヤフーなんかに支配されてしまうのではないか。
…というのは言い過ぎだろうが、「自分がどんどん考える力が弱くなっている」と考えれば、ぼーっともしていられない。
全国民、のんきに小保方さんのコピペ批判してる場合じゃないぞ、これは。
思考をブラッシュアップするには、人間は文字を使わざるを得ない。
自分の頭で考えるにも人は言葉を使う。
言葉を、文字を使う力を磨いていけば、頭を使う力もちょっとはマシになるのではないか。
鍛えるには実践が一番。今まではインプットばかりの人生だった分、これからはアウトプットを増やしていきたいと思う。
これまでは持ち前の「完璧主義」が 枷となり、「完成されたもの」しかお披露目してはいけないのではないかという思考が檻になっていたが、これからはぐちゃぐちゃなものをぐちゃぐちゃなままでぐちゃぐちゃに吐き出していきたいと思う。
だいぶ長くなってしまったが、以上が、僕がこのブログを書き始めた理由である。